カハタレ日誌

カハタレの稽古の様子

20220327夜、稲垣の戯曲の話。

20220327夜、稲垣和俊戯曲話。
参加者、稲垣、木嶋、桐澤、丹澤、南出、伊原さん、神田くん、杉原徹平さん、まりさん。
 
※時間がなくて、ワークショップできませんでした、、当日話した内容はざっくり以下です。↓
 
 
まず、僕の書いた戯曲を振り返りながら、どういうこと考えてきたか自分で整理しつつ共有できたらと思います。
 
1、マイスウィート心中 〜抽象という甘えの気付き〜
セックスシーンとピロートークシーンを交互に描いていく短編。
存在の確かさを求めるが失敗する。
 
座・高円寺劇場創造アカデミー修了後初の戯曲。
・丹澤さんの子供の頃の記憶聞いたのそのまま入れてる。
・丹澤さんと僕の出演で、徹平さん美術やってもらって、渋革演出で2回上演した。
セックスシーンのあーあー、ふんふん、てのとピロートークシーンが繰り返されて、だんだんあーあー、ふんふんが色んな見え方してくるって構成で、存在の不確かさみたいなことを考えて書いた短編だと思います。
・当時映画の手法でモンタージュってのをはじめて知って、全く同じ映像なのに、その間に違うシーンが挟まることによって違って見えてくるってやつで、セックスシーンのあーあー、フンフン、でそういったモンタージュをしようと目論んでました。
・このモンタージュ的なものは今でも使うし、むしろモンタージュではないのかもしれないのだけれども、物語において、物語の発展とは別路線の発展ってのがあって、僕は良く電話とか、家のベルとか、登場人物が操れないものでなる音とか良く使うんだけれども、初めてその魅力に気づいたのは本谷有希子の「腑抜けども悲しみの愛を見せろ」って戯曲で、民家の一室が舞台で、東京でモデルか女優かやってた姉が落ちぶれて地方に帰ってくる的な話なんですが、そこに扇風機がずっとあって、作中で壊れてるんですよね、みたいな触れられ方してくんだけど、姉の狂気が頂点に達した時に扇風機も止まらなくなって、コンセント抜いても動いてるってシーンが滑稽で、物語の発展とは絶妙にマッチしていて好きだった記憶があって、その影響が濃いかと思われます。
 
★参考にしてるの。
入沢康夫、失題詩篇
・太田省吾の更地→当時から今も一番好きな戯曲
岡田利規→わたしたちに許された特別な時間の終わり、三月の五日間の小説版で、ピロートークて子供の頃の話したくなるのなんでだろう、みたいなくだりがあって、その影響がバリバリ強いですね。
 
 
で、この戯曲を茶会記の企画で、再演もして、再演が辛かったって経験がかなり考えるきっかけになりました。
この戯曲をやりながら、同じタイミングで、フランス現代戯曲コレクション、ていっぱい出てるんですが、その中から、コフィクワユレのブルースキャットて戯曲の上演をして、また同じように再演するってなった時に、圧倒的に再演する楽しみがクワユレの方がありまして、マイスウィート心中の再演は本当に辛かった、今やったらもしかしたら感覚が違うのかもしれませんが、
 
 
●コフィクワユレのブルー・ス・キャット
男女がエレベーターの中で閉じ込められる。互いの素性を知らない二人は、表向きには一言も発しないまま、内面で喋り続ける。9・11の影響が濃い作品、途中でルイアームストロングのこの素晴らしき世界が流れる。
 
マイスウィート心中ってのはご覧のように抽象的な場所で抽象的な関係性で抽象的なこと喋ってるんですが、当時意識していたのが演出がどうとでも遊べる戯曲を書くんだって意気込んでたんですよね。演出のしようってのを考えた結果こういった抽象的な戯曲になったのですが、ブルー・ス・キャットの方も演出のしようはもちろんあるんだけど、演技のしようってのがあるって思ったんですよね。考えたら演出のしようって抽象的に書けば誰でも作れる、抽象的に書くって具体的に書くより全然楽ですよ、だけどシェイクスピアとかチェーホフとかイプセンとか結構具体的よ、それでも今でも上演されてるって、演出のやりようというより演技のやりようなんじゃないかって思ったんですよね。
もちろん、抽象を全て否定するつもりないけど、多分思ってるのは具体が行き過ぎた結果としての抽象でないと、すっかすかの抽象になるんじゃないかと、多分抽象ってあまり狙って書かない方がいいんじゃないかというのが今の僕の考えになります。
 
 
で、演技のやりようって何かって思ってた時に、ブルー・ス・キャット見てたら、台詞長いって思ったんですよね。ま、長台詞だけではないと思うけど、とりあえず長台詞だーって思って以降は長台詞を書きまくる旅に出るわけです。
 
 
 
2、僕達VS宮島直子 〜登場人物が喋り始める、関係性にダッシュをつける〜
 
あらすじ
高校の卒業間際、田中と川崎が話していると、二人とも宮島直子のことが好きだと発覚する。スポーツマンシップにのっとってライバル宣言した途端宮島直子が現れ川崎が付き合うことになる。そのあと田中が現れる。どうする川崎。
 
・木嶋さんの戯曲読んで衝撃受けて、木嶋さんと話してた時に、登場人物が喋り続けちゃうのよって言ってて、ほーうほう、それは面白いですね、ということで、この戯曲は本当に喋り出したって気がした記念すべき作品です。
 
・校正としてもシンプルイズベストな構成で、つまりAかBかどっちかを選ばなければならないって問題に対してAでもなくBでもなくCに至るっていう王道な物語形態を取っているんですが、最後は少し性暴力的なものに行ってしまったってのは反省点です。編集したいんですけど、思いつかなくて、
 
・この時どんなふうに登場人物喋らせていたかっていうと、シェイクスピア、当時ほとんど読んでなかったんですけれど、僕の中の勝手なシェイクスピアのイメージというか翻訳劇の言葉のイメージというか、それを高校生二人の言葉として出しているんだけど、意外にあまり違和感ないんですよね、高校生のふざけた口調として成立してしまってる感ある。
・壮大な口調でしょうもないドラマを。ってのがコンセプトです。
 
★参考
シェイクスピアのイメージだけ
エドワードボンド戦争戯曲集第三部大いなる平和→構成。
 
エドワードボンド戦争戯曲集第三部「大いなる平和」前半部分
軍から兵士たちに、食料が不足しているから、地元に戻ってその町の子供を一人殺してこいと命令が出る。主人公が実家に帰ると、母親の子、つまり弟と、近所のミセスシモンズさんの赤ちゃんが並んでいる。母親はベビーシッターの仕事をしているから。
ミセスシモンズさんの赤ちゃんを殺そうとするが、できずに結局、自分と血の繋がった赤ちゃんの方を殺してしまう。
以下、構成
 
1場
兵士たちに命令が下されるシーン
 
2場
母とミセスシモンズの日常
 
3場(結構長い)
実家に息子が帰ってくる。
 
母、息子、、久しぶりに会った母と息子の雰囲気
母息子ミセスシモンズ、、子供を預けにくるミセスシモンズ
母息子、、赤ちゃんにご飯を食べさせる息子、子を殺すために母親にタバコを買ってきてと頼む
息子、、シモンズさんの子を殺そうとするが、一旦皿を洗おうと躊躇する。
息子、、ペンバートン(友達)、子供を殺してきて金も儲けた友達がやってくる。早くしろと急かされる。
息子、ペンバートン、母親、、母親帰ってきちゃった。ペンバートン先に行ってると去る。
息子母親、、子供を殺さなきゃいけないと母親に告げる。その後の母と息子の関係性。長い口論の後、ミセスシモンズの子を母が差し出す。
 
 
4場
息子、ミセスシモンズ、、息子はミセスシモンズの家に子供を殺さずに届ける。
 
5場
母息子、、殺せなかったと告げた後の母と息子の関係性。
 
6場
母ミセスシモンズ、、母親がミセスシモンズの子供を殺そうとシモンズさんの家に行く。どちらかの子供が殺されなければならないとなった後の母とミセスシモンズとの関係性。
 
7場
母息子、、ミセスシモンズの子供を殺せなかったと母が疲れて帰ってきて、息子のシャツを洗濯している間に、息子は母親の子を殺す。
 
8場
子供を殺してきた兵士たちのシーン
中尉のタバコの空き箱を拾えという命令に息子が何故か従わず、大尉が命令しても従わず射殺される。
 
 
AとBという関係性が明示される
後に、とある情報がもたらされ、
A‘とB’という関係性になる。
 
こういったシンプルな構成が第三部にはあるよと。
 
で、それを踏まえて僕達VS宮島直子を見ると、
 
田中と川崎(普段の田中と川崎)
田中‘と川崎’(二人とも宮島直子が好きだと知った後の田中と川崎)
田中’‘と川崎’‘(宮島直子がやってきて川崎に告白してきた後の田中と川崎)
 
という風に、「‘」の数が増えていくというシンプルな構成になっているわけです。
 
この後に書いていく物語の筋がはっきりしてる戯曲、パーティさながら愛と孤独、愛じゃなくとも逃避行、もこういったシンプルな構成で書いてる。
 
 
 
3、さよならアワーアワー、おつかれサワーサワー 〜自分の演技感覚を言葉に〜
 
あらすじ
さよならアワーアワーはいきなり路上で刺された女が死ぬまでの一瞬を引き伸ばしたモノローグ。怒濤に喋る。
反対に刺した男のモノローグがおつかれサワーサワー。中上健二の血の感覚、ベケットの他者としての自分を観察する感覚、秋葉原連続殺人加藤氏の手記や、演じてくれた宮尾さんの話を参考に書いた。
 
・長台詞の旅してきて、どうせならとことん長台詞を書いてやろうとしてできたのがさよならアワーアワー。OLのブログを読み漁り、自分の過去の記憶を糧に一気に即興で書いた。
 
・書いてみて思ったのが、トマソンの祀りて活動でしてきた自分のパフォーマンスの感覚が出ているって気がしたわけです。当時、街中の人々を観察して、無意味化してる動き、ティッシュを配れず、人のいないところにもティッシュ配ろうとする手や、誰もいなくても無意識に手を叩いてしまう客寄せの手、誰かを待ってる人の足など、観察して模倣するパフォーマンスをしてて、部位ごとに同時発生的に発動する路上のキメラってパフォーマンスしてたんですよね。映像あります。5分過ぎたとこくらいから主に見てもらえれば。
これ、頭めっちゃこんがらがるんだけど、左手はメロンパン示す手、右手ティッシュ配り、足宝くじ売り場の足、って身体中、色んなところに意識向けなきゃいけないんだけど、意識をパーセンテージで右手20%、左手20%、足60%って具合に、身体の部位の意識をパーセンテージでコロコロ変えていくわけ。で、さっき20%なのを今度80%でやろう、やめて別の身体持ってこようてコロコロ変えてくんだけど、こういった具合に、意識って一本道でなくて、常に並行で何本も道が走ってるわけですよ、会話してて、この話してるのに同時に足痒いなって思ってたり、寒いなって思ってたり、いろんな意識が常に並行してあって、さよならアワーアワーを書いて思ったのは意識の複数路線を行き来してるんですよね、痛い、死ぬ、今まで付き合ったの誰だっけ、死ぬ間際にやりたいこと、とか、一本道でなくて、いろんな道をコロコロ変えて歩いていく、歩いていくっていうか走っていく感じ。
これはトマソンやってたから書けた戯曲だし、最初から複数路線の意識をコロコロ変えていこうと目論んで書いたというより結果的にそうなったから良いんじゃないかって気もしていて、つまり、何が言いたいかって言うと、自分の演技感覚でどばーって書くということが起こっていて、それによって立体的になったというか、あ、演技で書くんだ、戯曲って、って思ったんですよね。
 
あと、こんな大量に書けたのも状況が良かったからだと思っていて、刺されてから死ぬまでっていうのがシンプルかつ奥が深かったのではないかと。登場人物が喋り始めるってのでいつも書こうとしてたけど、いつだってすっと喋り出してくれるわけでないのね。。で、思ったのは、良い状況ってのがあると結構勝手に喋り出してくれるって思っていて、何にもない状況だと中々難しいかもしれないなと。
あと、さっきのトマソンの経験から登場人物が喋り始めるっていうのは劇作家が無意識に演技しているから勝手に喋り出しているのではないだろうか。と、思ったわけです。
 
台詞=状況×演技
 
状況があって、その状況の登場人物をどう演技するかで良い台詞が生まれてくるって考えたわけです。
 
だとしたら演技を深める、あるいは幅を広げることで色んな台詞を書けるんじゃないかと思っていて、で、これを上演した時に、結構大変だったんだけど、ていうのも演出がほぼいなくて、中途半端な感じで俳優の方々に本当申し訳ない感じだったんですけれども、そんな中で、演じてくれた森さんがさよならアワーアワーを結構ゆっくり話すっていう演技にたどり着いたわけです。
 
書いた時にはドバーッと怒涛のテンポで演じるイメージだったのだけど、そういう立ち上げ方ができるのかと、この演技によって、言葉の一つ一つに思いを馳せることができた。
 
それを見て、次の戯曲はしめった質感の言葉を書きたいと思った。そしてできたのが、次の、「明夜、蛇になれない」になります。
 
劇作家⇔俳優の関係性
俳優は劇作家の言葉を通して演じる。
劇作家は俳優の演技を見て言葉をつくる。
 
こういった関係性が成り立つんじゃないかと気付かせてくれた公演でした。
 
 
4、明夜、蛇になれない。 〜物語になる〜
 
ある駅のホームから昔一緒に住んでいた男性に電話をする。ふと、あなたと一緒に住んでいたあの部屋に行ってみようかと思っている。という、ふと、についての電話劇。
 
★参考
能、隅田川
能、道明寺
らんま1/2 エンディング曲「ひなげし」
後藤明生「壁の中」
森さんの湿った演技
 
 
後藤明生にはまっていた時期。
 
・道を歩くように言葉を書いた戯曲。さよならアワーアワーの意識の複数路線て話を具体的に歩く街並みの描写を交えて、何を話しているのかわからなくなっていく会話の迷路と昔住んでいて知っているはずの街中の道に迷っていくという立体的な迷路、二重の迷路を意識して書いた。
 
・タイトルが全く出てこなくて、夜のラブラビリンスにマジでしかけたけど、その時読んでた志賀直哉の暗夜行路てタイトルがめっちゃかっこいいと思って、内容とは関係ないけどパクった。
 
・最初らんま1/2のエンディング曲の謎について、今井美樹のプライドとかピーナッツの恋のフーガとか交えながら喋っている戯曲だったんだけど、上演する際に既存の曲そのまま使うのはちょっとってなって変わった。
 
・能の隅田川現代版を作ろうと思った。隅田川は子供と離れ離れになった母が川を渡っているうちに、渡し守に昔ここで子が死んだと伝えられて、その子が実の子だったと知って、お経をあげると、子供がふっと現れたり現れなかったり、流派によって違うらしいけど、ちょっと会える的な話で、それを下敷きに今回はいなくなった人に会いにいく話、しかし会えないっていうシンプルな構成で書いた。
 
・あと道明寺っていう、和歌山の昔話で安珍清姫伝説ってのがあるんだけど、熊野詣でに行く途中に泊まった家の娘に惚れられて結婚迫られる僧がいて、帰りに寄るから、とか言って嘘ついて無視して帰ろうとしたら、それに気付いた娘に追っかけられて、逃げてると娘が怒りのあまり蛇になるって話を拝借して、そんななかなか僕ら蛇になれないよなあって思って書いた。
 
・書いてると戯曲の歩みっていうのができてきて、ある程度書くとああ、目的地はここか、ってわかってきたりするんだけど、これ、本当にわからなくて困った。
わからないというか、こっちへ行きたいって思ってても、台詞の運動が全然違うところに着目してしまって全く違う道を歩いていっちゃうんですよね。それが面白いところでもあるんだけど、
 
で、この頃くらいから考え始めたのが、物語をつくるんじゃなくて、物語になるんだってことですかね。
 
ま、この辺考え方というか、書き手の好みの問題にもなってくるのかなと思うのだけど、最初に物語を完全につくってしまうと、登場人物が物語に従わないといけなくなるんですよね。それでも全然面白い戯曲書けるかもしれないけど、立体的な台詞、身体的な台詞、ドライヴする台詞にはあまり向いていないと思う。登場人物が動いた形跡が物語になるんだってことくらいにしとくとやっぱ登場人物が動き始めるというか生き生きするんじゃないかと思うんですよね。
あと、意味に捉われすぎなくて良い、物語がきちんと終わらなくても良い、こういった登場人物の立体的な動きが見えていたらそれだけで結構自信持っていいんじゃないかと思う。ってのが今の個人的考えです。
 
 
それで、この後、夏目漱石原作にした「行人日記」ってのを書くんだけど、この時バリバリ夏目漱石はまっていながら、その後にはまった萩原朔太郎の影響がかなり出ていて、詩で書こうと思って書いたんですが、逆に詩で書くのもありだけど、詩になるってのもあるんだなと思い始めてる。
物語になるっていう考え方と同じなんだけど、詩で書くんじゃなくて詩になる。演劇っていうのは全く同じ言葉を使っていても、最初のシーンと最後のシーンで全然違う意味に変えられる時間芸術の側面があると思っているわけです。普段の無理なく使っている言葉がふと詩になる瞬間をつくれたらどんなに良いだろうか、これは伊原さん詳しいと思うけど、タゴールの詩を書き始めるきっかけになったエピソードがあります。吉増剛造の詩とは何かってすんごいタイトルの本に載ってるんだけど、タゴールが14歳の時、洗濯女が窓の外で話している声が聞こえたと、それが「あら、雨が降ってきたわ、葉が揺れたわ」という声だったらしいのですが、その声が、音の響きが、少年タゴールの心を驚かせたとのことらしいのです。そして詩を書きはじめた。雨が降ってきたわ、葉が揺れたわ、なんでもない普通の言葉がその時のタゴールの波長と妙にリンクして詩になっちゃうんですよね。ジョル・ポレ、パタ・レノ、って音が重要だと吉増剛造は言ってますが、意味的には普段使う普通の言葉も状況によって詩になる。そんな感じで、普段使う無理ないような言葉も、戯曲の中で詩になってくんでないかって考えが今のところあります。
 
 
★演技の捉え方の拡張
萩原朔太郎も演技だし、後藤明生も演技だ。
俳句も短歌も詩も美術も武術も料理も世界名作劇場も何もかも演技として捉えることができれば、何もかも戯曲にも演技にも活かすことができるってのが今の僕の考えです。だから、この講義ワークショップ企画をやろうと思ったし、色々読んだり見たりしようと、やればやるほどってのが実感としてあるので、読めば読むほど、書けば書くほど、体験すれば体験するほど、良い台詞が書けます。って信じてる。アイビリーブマイセルフ。綾香。
 
具体的には、印象派の筆触分割て手法とか、点描とか、台詞に活かせないかなと思ったり、先週見た甲野善紀の身体操作術ってドキュメンタリーで、井桁崩し、三次元井桁崩しって名付けられてる技とか戯曲に活かせられたら最高だよなあって思ってる。
 
 
5、犬、呪わないで(カハタレ共同劇作)
 
演技を通して台詞を生み出すのであればいろんな演技の感覚が集った方がいい。
やってると僕の得意な演技、苦手な演技ってのが、やっぱあって、え、それって色んな人と共同で作った方が色んな言葉を扱えるよねって思ってはじめたのが共同劇作ということになります。だけど無茶苦茶大変なので課題山積みのところで一旦考えるのやめてます。
 
で、ええとカハタレの活動が始まって、共同劇作でつくったのが、犬、呪わないでということになります。
こちらはモノローグの発展ということに着目して、語りをリレーしていく構成の中、ダイアローグとモノローグの中間地点を狙った戯曲。
下敷きにしたのがメデイア、メデイアの呪いの要素に着目してみんなでつくった戯曲です。
 
 
 
以上、僕の、戯曲遍歴は終わりで、色々言ったけど、重要なのは
 
・演技で戯曲を書くといいんじゃないか。
・いろんな演技にアンテナ張ってたらいいんじゃないか。
・構成はシンプルだとつくりやすい。
 
 
 
以下はその他、戯曲を書く上で大事にしてること、話しておきたいこと、ここからが本題!
 
●濃密な一瞬に辿り着きたい。タゴールの話に繋がるんだけど、
・和歌山でお世話になっていたフライングフィッシュソーセージクラブ、現在は劇団和可の松永さんに教えてもらったことでずっと大事にしていること。その時参照してたナイス橋本の動画がどこか分からんくて、代わりに同じような意味合いかなと個人的に思ってる風味堂の動画、この一瞬だけで良い。この一瞬のために一二時間芝居してるって話を当時されて、感銘を受けた。
 
 
 
・砂の粒、鎮静剤、金井美恵子朝吹真理子が読んだ時の感想
動画48分〜
金井美恵子という名前も小説のタイトルも忘れて、その風景を思い出す経験。
 
 
 
13:30〜羽生の潜る話。
49:30〜吉増の情景が体に入ってくる話。
 
 
 
 
 
庭劇団ペニノを見た時、めぞん一刻の音無しの叔父さんの言葉を思い出した。
なんか、音無しのおじさんが響子さんと五代くんの結婚式の時、響子さんに言うんだけど、綺麗だ、とても綺麗だ、響子さん、あなたはこの日のために生まれてきたんだよ。っていう言葉が良い舞台見ると浮かぶ。この瞬間を見るために僕は生まれてきたんだって思える。あと、スラムダンク安西先生の言葉も浮かぶ。見てるか、田沢、お前を超える逸材がここにいるんだ、それも二人も、ダーンク、てシーンが浮かぶんですよね。
 
 
・さっきのタゴールの話とか、谷川俊太郎の詩を書きはじめた話とか、詩の一瞬の話面白い。
 
 
演劇も将棋も詩も同じような日常とは異なる時間を経験してるのではないかしら。
 
 
・太田省吾、更地の一節。→資料①
黄金の時間が欲しい。
 
“女 本当にってことよ、あたしが言ってるのは。戦争はあったんです、年表にも教科書にも載ってるわ。でも、そんなことじゃないの。あたしの欲しいのは、そういうものじゃない。本当にってことは、ほとんどなかったかもしれないようなことのよ。あたし、ほとんどなかったかもしれないようなことがいっぱい欲しい。ほとんどなかったようなことがいっぱいあれば……なんでもない日のなんでもないことがいっぱいあったことになって……そうよ、なんでもない日のなんでもないことがちゃんとあることになれば……どうなるんだったかしら。
男 そうだろう。……ほら、ややこしくて、自分でもわからなくなったじゃないか。
女 十五秒、ね。
 
 女、布の中へ。
 男、女のそばに腰を下す。
 
男 ……経ったぞ、十五秒。
 
 女、布から顔を出す。
 
女 黄金の時……黄金の時が欲しいって……そう言ってるの、あたしは。
男 黄金の時……大袈裟なんだな。
女 いいのよ。大袈裟でも。黄金の時は、忘れても仕方ないようなところで金色に光るのよ。忘れても仕方ないようなことなんだけど。証明しようとしても仕方ないことなんだけど、忘れちゃいけないの。……忘れても仕方ないことがね、思い出せるように金色になって……なんでもない日のなんでもないことが忘れられないように金色して……ね、わかるかしらね、あたしの言いたいこと。“
 
 
 
別役実、眠っちゃいけない子守唄の一節。→資料②
 
”男1 私が今一番欲しいと思っているのはね、エチオピア人とチェコスロバキア人が話をしているレコードなんだ。これはとてもいいよ。何故って、エチオピア人はチェコスロバキア語を知らないし、チェコスロバキア人はエチオピア語を知らないし、私はその両方を知らないんだからね……。しかも話は話なんだ……。“
 
 
 
 
上記に挙げた様々な特殊な時間をいかにして舞台上で体験することができるか。
劇の収束点なる時間、密集する時間、濃密になる瞬間が欲しいといつも思っている。前回のカハタレ、犬、呪わないで、だったら、あやと山下のモノローグなのかダイアローグなのかどっちも重なってるっていうシーンがそういった濃縮的な時間のシーンに当たるんじゃないかと思う。
 
 
●劇作家の演出的要素。
 
劇作家
→俳優要素
登場人物が操れる要素
→演出家要素
状況設定、場面切り替え、雨降らせたり、宝くじあたらせたり、登場人物が操れない要素
 
 
参考
金の国のコント
あ、雪
 
 
雪とか猫とか登場人物が操れない演出的要素によって現れてくるものが上手く使われて、その状況を生きてる登場人物がイライラしてたのに優しくなる、心境が変化するっていう俳優的要素も上手い良いコントだなあって、すんごい好き。優しい。
 
良い状況設定に登場人物を置くってのが演出的要素。
逆に言うとはじまりのそれさえできたらワンシチュエーションでだーって俳優的要素で戯曲は書ける。
 
状況設定なんてそこら中に山ほど転がってるんだから、借りてきて己の俳優的要素だけで書けたりするんじゃないか?
 
 
●登場人物の情報量
あった方が良くて、特に登場人物が動きやすくなる情報が欲しい。
昔こんな過去があって傷を負っているみたいな情報とかもいいんだけど、登場人物が動きやすくなる設定、情報ってもっとどうでもいいことだったりする。
 
★登場人物が動きやすくなる設定例(最近見たものや、思い出せる範囲)
吾輩は猫である水島寒月君の登場シーン
餅を食って欠けたとかで歯が欠けてる。
ゴーゴリ、死せる魂
主人公を世話してくれたサモワールで靴下を乾かす梅干し婆さん。
太宰治グッドバイ
怪力女、おそれいりまめ女史
横光利一、夜の靴、子供
先生やめないでくれい、ぼた餅食うか
 
 
あと、口癖とか、語尾とかね、想定するの良いよね。
決めちゃうと守ろうとするけど守らない。あくまでも癖であって、出ちゃうものなのでわざと出すようにしたらダメになる。
 
ワンピースのキャラがわかりやすいよね、アーロンだったらシャーハッハッハて笑うし、キャプテンクロはメガネの上げ方独特。
こういう登場人物設定を現実に活かせるものであるだけで意外と動かしやすかったりする。
 
 
●オリザさんの現代口語演劇は結構演技で書く感覚で補える。
 
知ってる情報は相手に話さないとか、醤油目立たせたい時に醤油醤油、醤油取って!とかって言うってやつは、
登場人物がその場にいることをちゃんとイメージしていれば、自然と出てくる。
逆にその理論の例外ももちろんあるので、そういったことも無理なく行える。
あとナチュラルな言語に捉われないことができる。
ナチュラルな言語だけでなくて、劇の空気感ってのがあって、そこで納得させてくれたら、そんなこと言わんやろとか気にならんくなる。はず。
 
 
●真理に辿り着きたい
椎名麟三「蠍を飼う女」→資料③
崖下の家に住む家族の話。土砂崩れで家が傾いていると同時に家庭の崩壊が示唆される。
娘のとき子を救いに来る愛を語る大森愛吉と正義を語る両角正男。
弟の健次は飄々と生きている。崖はどんどん崩れる中、母は宗教に走り、父は愛してくれと弟のガールフレンドに迫り転落死する。
とき子は突っかい棒について、「暫定的措置こそ生きていく上で重要なことなのよ」と語る↓
 
“とき子 そこに突っかい棒みたいなもんないかしら。
健次 突っかい棒?どうするの?
とき子 崖が崩れて来ても少しでも持ちこたえていられるように、この家に突っかい棒をしたらどうだろうと思うのよ。
健次 ふん、なるほどね、一時的……いや、暫定的処置というわけだね。
とき子 暫定的処置以上のどんなことが人間に望めるというの?ただ、わたし、その暫定的処置を喜べるようになりたいと思っているだけなのよ。戦争だって、死だって、どうしても起こらずには、いないものかも知れないわ。しかし、前へのばすのよ。ただ前へのばしてこの世界の崩れるのを防ぐのよ。ほんとうにそれ以外のことを望むのは、きちがいだと思うのよ。”
 
このとき子が至る考えはとき子ならではの真理って気がしていて、好きなんですよね。
世界の真理までいかなくともその登場人物だけが信じられる真理、知ってしまう真理に辿り着きたい。
ここで気をつけたいのは劇作家の普段考えていることや主張を登場人物に喋らせてしまうことは避けたい。あくまで登場人物が考えつくことが理想。だけど、どうしても自分の考えを喋らせたい場合はそういう考えに至るようにちゃんと流れを作ってあげたい。
 
 
●細かさの正義
別役実「象」→資料④
原爆被爆者でケロイドを見せ物にしている病人と甥の話。
ちょっと読み直せていないけど、おにぎりの食べ方の話細かくてめちゃ好きだった。
おにぎりの食べ方を語る病人↓
 
“病人 いいかね、お前には計画ってものがないんだよ。いい事を教えてやるよ。つまりね、俺はいつもそうやっているんだが、おにぎりが二つあるときは、おかずも二つに分けちゃうんだよ。そして一つのおにぎりを食べ終わるまでは、その割当て分だけで我慢するのさ、わかるかい。
そうすりゃあ、おかずなしにおにぎりを食べるなんて事はなくなるわけじゃないか。
妻 そうですね。
病人 そうだよ。
それからね、細かい事を云う様だけれどもね、お前の、その、おにぎりの食べるやり方がね、やっぱり、一寸、無造作に過ぎると思うんだよ。
いいかい。お前はね、そのテッペンからモクモク食べ始めて、真中のおかずの所まで食べるだろう。その時、俺はいつもどうするつもりか見てるんだよ。
お前は、まるで当たり前みたいに、その真中のおかずを、パクリやっちゃって、それから、おかずも何もない下の方を、すこしつまらなそうにパクパクやってゆくじゃないか。そうだろう。
ね、俺に言わせれば、まるで、芸がないってもんだよ。
そうじゃないか。
教えてやるよ。まず、テッペンから、モクモクやるだろう。おかずが出て来る。ひっくり返すんだよ。わかるかい。今度はお尻の方からパクパクやるんだ、ね。最後におかずの所が残る、それを最後の一口にするんだ。
これが順序ってもんだ。つまり計画だよ。作戦さ。最後まで楽しいってわけだ。”
 
 
細かさ、ミクロの視点は大体面白いし、好きですね、ミクロになれるポイントを見つけたらそれだけで正義だと思ってる。
 
 
宮本信子が営むラーメン屋が一流になるまでのサクセスストーリーだが、物語はちょこちょこ枝分かれし、食に関するサブストーリーが大量に出てくる。そのサブストーリーが、グルメなホームレスにオムライス作ってもらう話とか、卵の黄身をキスで口移ししあったり、死にかけの妻にチャーハン作らせる話とか、ことごとくどれも良い。
老人はラーメンの食べ方について語る。あとでね。
 
 
●バカやろーと言う練習をする父親
金属バット殺人事件という実在にあった事件をもとに作られた戯曲。
夫と妻の妙な会話から始まり、次男とうまくいっていない様子、妻から息子への異常にも見える愛情が描かれ、近所の新聞配達員や奥様達の目線も描かれ、夫と夫の妹の性的関係も匂わされ、夫が居酒屋で倒れた際けてくれた夫婦に財布を盗まれ、財布を盗んだのは次男だと疑いを向けた結果、長男によって母と次男の性的関係が暴かれる、それに、ああ、そうかとしか言えない父、なんだ、バカやろーという練習する父。弟と母の関係を知ってる長男は母親の作る料理が食べられず毎日吐いてる。父親らしく強くあろうとするが、なんだかんだで最後祈る、11月の雨が雪になってくれたらと祈る中、次男のバイクの音が響き渡る。
言葉の巧みさ、ブツブツ、目が物語っている、耳は縁側、思考の流れ、過剰さ全て面白い。全ての登場人物が動いてる。
 
※ちょっと引用長いので、やめますが、めっちゃ面白い戯曲で、めちゃくちゃ登場人物が動いてる。
 
 
●そして最重要本題、目の話。
 
藤子・F・不二雄「宇宙人レポート サンプルAとB」
宇宙人が地球人の生態について報告していると思ったら、ロミオとジュリエットについての報告だった!!
宇宙人は雲のことを浮遊性水滴集団と呼ぶ。
で、ロミオとジュリエット坪内逍遥訳と藤子・F・不二雄訳を比べたのがこちら。下の方。最初の方はダラダラ喋ってるだけなので読まんでいいから。下の方、宇宙人訳と坪内逍遥訳比べているところ読んでくださいませ。
 
 
宇宙人の目でもってしてロミオとジュリエットが変換される。
さっきから演技演技って言ってたけど、演技ってなんだよってなったら、ちょっとわからなくなるが、一旦、変換装置って言ってみてもいいんじゃないかとと思ったのね。
 
宇宙人の目という変換装置を通してロミオとジュリエットが変換されるわけ。
 
ついでにこちら。
 
ポイズンガールバンドのグローブてコント。
グローブをお笑い芸人の目で変換させていく。
野球用ジャンボ革手袋、野球するときに左手につけるデカ手袋、使ってるうちに柔らかくなる革手袋、親父との絆、等々
 
 
夏目漱石吾輩は猫である。二十世紀の猫の目で見た当時の英語教師の日常。
太田省吾の更地、なにもかもなくしてみた目。
別役実伊丹十三、ミクロの目線。
 
こう言った具合で、ある言葉や文章や物語を目を変えることによって新しい言葉に変換させることができるのではないかと思っています。
 
 
 
ので、色々長かったけど、今日やるワークショップはこちら。
 
 
★目を変換させることによって戯曲を変えてみよう。
 
・僕の戯曲、さよならアワーアワー、刺されてから倒れるまでのモノローグを参考に、同じ状況、刺されてから倒れるまでの一瞬を、宇宙人の目、タコの目、ロボットの目、田舎のオカンの目、ギャルの目、平清盛の目、なんでもいいです、なんらかの目で持って刺された状況を捉えて、この戯曲を変換してください。
・刺されるのは女だけど、宇宙人の目になるのか、そもそも宇宙人が刺されるのか等の細かい設定は任せます。
・あまり考えすぎず、一旦この目って決めたら、その目になったと感じてからドバーッと書くのがおすすめです。
 
・二十分くらいで、そのあと読み合わせしましょうー。
 
 
ていうワークショップをしたかったのだけど時間なくて出来なかった。申し訳なしです。今度時間ある時
やりましょう。
あと振り返りもしたかったけど、出来なかった、申し訳ない。
 
★まりさんがツイッターでくれた感想。
・演技と書く関係だと、詩人で中澤延子、柳美里さんを思い出す。
→中澤延子知らなかったので読んでみます。
・劇作家の演出家要素と俳優要素について、演出家要素は神様を演じることで吐き出しているのではなかろうか。
→面白い。
・まりさんの場合は、登場人物の潜在的予感に頼ってるところがある。
→詳しく今度聞きたいです。
 
 
 
★講義中の覚えておきたいこと、
・さよならアワーアワーがターニングポイントだって言おうとしたけど、パーキングエリアだって言ってた。
・休憩中の木嶋さんが持ってきてくれたバームクーヘン、丹澤さんのお菓子をいただきながら、僕の妻がお土産にくれた駄菓子の偉人シール(ラムネと有名な偉人のシールがランダムで入っている。)で遊んだ。
南出くん→チンギスハン、嫌がってた。
稲垣→マリーアントワネット
神田くん→アレキサンダー大王、稲垣のマリーアントワネットと交換した。
まりさん→チャップリン、写真ありそうなのに絵だった。
徹平さん→紫式部、南出くんが羨ましがる。
木嶋さん→ペリー、いきなりスマホに貼ってた、
丹澤さん→レオナルドダヴィンチ、
伊原さん→ゴッホ、自画像、
桐ちゃん→坂本龍馬、最初みんなに羨ましがられてたのに、南出くんに雑コラージュやん、雑コラやん、って一言で価値が下がった。
 
 
★次回は4月10日(日)13時半からベケットのエンドゲームをみんなで声に出して読む会します。
興味ある人いましたら連絡くださいませ。romantist721@gmail.com
 
夕方から桐澤千晶ファシリテートで共同創作のワークショップします。
孤独の記録2022です。こちらも若干名参加者募集してます。
詳細は以下↓
 
よろしくお願いしますー。