カハタレ日誌

カハタレの稽古の様子

幽霊を弔わないこと、良きニヒリストになること(渋革まろん)

幽霊を弔わないこと、良きニヒリストになること
 
 犠牲にならぬものたちの声を犠牲にならぬままに拾い上げることは可能だろうか? あるいは、犠牲にならぬものたちの声はどうして犠牲にならぬものたちの声として聞かれ得ないのだろうか? 『気遣いの幽霊』というテキストから連ねられた時間のなかで、私が抱いていたのはそんな疑問だ。
 
 
佐伯 その時、カチカチカチカチ、って音が聞こえてきて、なんだろうって思ったら木田くんがあの、押しボタン、押してるんだよね
 
 
 木田くんは幽霊だ。あるいは幽霊を名乗る男だ。あるとき佐伯という男は、「お召し物をくださいませんでしょうか?」と声をかける木田くんに出会うのだが、木田くんには幽霊らしいところがなにもない。言動がやや常識外れなだけで、触れることも会話することもできる。つまり実体がある。そんな彼の「気を遣わずに喋れる友達が一人もいなかった」という言葉に心を動かされた佐伯は、彼を恋人のともみとのデートに連れて行ったり、「気を遣わない鍋パ」を提案して、ともみの友人のあやとその夫(山下)の家で無理やりチゲ鍋パーティを開いたりする。しかし、そうした佐伯の気遣いはことごとく悲惨な結果を招く。最終的に、鍋パの気まずさを打破するために外出した一行は、その途中で木田くんが時差式信号機の押しボタンを夢中で推し続けるのを目撃することになる。
 この作品にはさまざまな幽霊性が散りばめられている。幽霊は死後の怨念や心残りがある特定の場所・時間においてかたちを成して現在に生きるものたちを脅かす。つまり、存在していないが存在していないわけでもない非在の形象である。まず第一に、空回りする佐伯の気遣いは、佐伯が気遣いをしているというよりも気遣いが佐伯に行動させているという意味で、気遣いの幽霊に取り憑かれているように見えるだろう。
 また、佐伯に対するともみの愚痴をあやが聞くところから始まり、その佐伯が語る木田くんの話をともみがあやに語り、それをあやが夫の山下くんに語るというかたちで、過去を現在に包摂していくように語り手を横滑りさせながら、最終的にその全体があやの怪談話だったことになって終わるこの戯曲は、人から人に伝播しながらそのつど遡行的/パフォーマティブに”オリジナル”が作り直されていく民話的な怪奇譚、あるいは「洒落怖」のようなネットミーム的な怪談の形式を演劇的な語りの構造に落とし込んでいる。そこで非人称化される語りの主体にもある種の幽霊性が看取される。
 最後に、上演の位相においても、終始横並びで舞台に立っているにもかかわらず、語りの構造の中で時間軸上の別の時点にいることになる俳優の身体は、上演の現在を共有しながら共有していないという幽霊的な位相のズレを伴ってそこに置かれることになる。
 このように登場人物の類型、語りの構造、上演の位相のそれぞれで幽霊性が見出される。しかしそれはある意味で当然のことだ。演劇という形式は、テクストやモノや人体、諸要素を取り結ぶ関係性の力学を作動させることで、そこにないものをあたかもそこにあるかのようにみせる想像のメディアであるからだ。近代リアリズム演劇の信奉者でなければ、演劇というメディアが存在と不在のあいだに幽けきものの触媒にならざるをえないことを知っている。けれども木田くんには演劇的な幽けさがほとんどないのである。なぜ本作には幽けらぬ幽霊がそれとして登場せねばならなかったのか?
 生者を脅かすほどに強烈な念を留めることがなかったものたち、すなわち、犠牲にならぬものたちの声にかたちを与えるためではないか。犠牲者の名は追悼される資格を持つものだけに与えられる。その資格とは私たち──政治的共同体──の同胞であることだ。死者は常に善悪、そして勝敗の両面において私たちの歴史を築いた意義深いものとして思い出される。祖父母が命をつないでくれたから今の私がいる。先人の努力があったから今の豊かな生活がある(あるいはない)。戦争の犠牲者に報いるために戦後の平和を守らねばならない。けれども、時差式信号機の押しボタンを夢中で推し続けたものは、誰が記憶に留めるだろうか? あまつさえ悼まれるべき犠牲者として?
 
 
あや って、みんなあの時の木田くんを、木田くんのカチカチカチカチを忘れていて、
ともみ 夢でも見たじゃないの?
 
 
 こうして木田くんの存在はすっかり忘却されることになるわけだが、それは彼が幽霊だからではなく、個人史や家族史や日本史や世界史……どのようなスケールであろうと歴史的に意義深いものとして想起されうる幽霊の資格を持たないからだ。木田くんが幽霊らしからぬものとして舞台上に登場するのは、死者の声を呼び起こし幽(かそけ)ものの触媒となる劇形式のイデオロギーを逆に利用し、犠牲者として記憶に留めることができない実在する幽霊を明かすためなのである。
 演劇を通じた死者の追悼は幽霊の生に意味を与える。だから犠牲にならぬものとしての木田くんは幽霊らしからぬものとして登場せざるえない。非在の幽霊ではないありありとした実在として。けれども、それは木田くんが犠牲者として弔われないものであることを意味しない。むしろ木田くんは救済されるべき“被害者”として記憶されることを拒絶する。
 
 
木田くん そのお前のためにってのが無くならない限り、エッキー、わたしとあなたは対等じゃないんすよ
佐伯 は?、なんだよそれ、ふざけんなよ、お前が助けてって言っただろ、助けてあげたいなって思ったから、こうなってんだろ
 
 
 木田くんは他者に不快感を与えないための気遣いに疲れ果てた“幽霊”だった。そんな木田くんの呼びかけに応えて佐伯が開いた「気を遣わない鍋パ」は、そもそも気を遣わないでいられるような安心できる場を提供する気遣い=ケアの作法を欠いていたがために失敗に終わる。それではそうした気遣い=ケアの作法を佐伯がわきまえていれば、木田くんが現世に執着する理由は解消されたのだろうか? そうではないだろう。鍋パの中で木田くんは、佐伯との会話の中で、共感から行われる気遣い=ケアの倫理が他者を救済されるべき弱者(被害者)として共同体の内部に取り込むイデオロギーであることに気づくのだ。
 
 
佐伯 木田くん、謝っちゃダメだよ、
木田くん あ、もう、はい、すごく、なんだろう、はい、
あや あ、もうなんだろう、見るからに、この会、なんなんだろう、多分、みんな思ってたと思うだけど、
木田くん あはははあはははははあ、傑作だなあ。
 
 
 木田くんは木田くん自身に、そして私たちに染み付いた“気遣いの幽霊”を笑い飛ばす。諸個人の尊厳を尊重する近代的な政治共同体の成員は犠牲にならぬものを道徳位階秩序のうちに引き込むことで記憶に留めようとする。しかし木田くんは逆に、時差式信号機の押しボタンを夢中で推し続ける狂人に社会の犠牲を見る私たちをあざ笑うのである。
 犠牲者として幽霊の生に意味が与えられることを拒絶する。だから木田くんは忘れられる。決して弔われまいとする犠牲にならぬものたちの声は忘却によってこそ拾い上げられるのである。
 ただし、良きニヒリストだけは──どうしてもこの世界の喧騒から生きる意味を汲み出せない虚ろなる者たちだけは、木田くんの声を密やかな愛として思い出すかもしれない。良きニヒリストになることへ私たちを誘惑する声を聞き取るかもしれない。
 
 
あや 今でも聞こえてくるのね、あ、わたしやっとくよ、カチカチカチカチ、今日楽しかったね、カチカチカチカチ、あ、サラダ取り分けましょうか?、カチカチカチカチカチカチカチカチ、しょうがなくない?
 
 
 というわけで、最後にこのレビューの欄外に書き記しておきたいのだが、『気遣いの幽霊』のクリエイションは演劇作品の発表を目的としたものというよりは、ゴーゴリの小説『外套』に出てくる下級官吏・アカーキエウィッチのキャラクターを集団で共有し、それを自由に解釈し、1年以上の時間をかけて、幽霊を幽霊たらしめるものはなにかについての共同探求の方法として演劇を使うものであることにも注意を向けて欲しいと思う。
 じっさい、ゴーゴリの『外套』は幽霊が登場する後半部分に注目を向けられがちであるが、『気遣いの幽霊』は、写字という退屈な役人仕事に熱中していたアカーキエウィッチの幸福に重きを置いて、『外套』を再読する試みでもあるだろう。また、蛙坂須美の怪談ワークショップ、横尾圭亮のロシア演劇とゴーゴリ『外套』をテーマにしたワークショップ、浅川奏瑛による「空間と身体のコレオグラフィ」ワークショップなどを通じて、他分野に場を開いていくクリエイションの方法は、演劇を領域横断的な探求のメディアとして息づかせる。こうして共同探求の方法として演劇を活用するカハタレの実践が、どのような動きを見せていくかにも期待を寄せたい
 
 
 
執筆:渋革まろん
演劇・パフォーマンスを中心に批評活動を展開。「チェルフィッチュ(ズ)の系譜学――新しい〈群れ〉について」で批評再生塾第三期最優秀賞を受賞。演劇系メディア演劇最強論-ingの〈先月の1本〉にてパフォーマンスとポスト劇場文化に関するレビューを連載(2022)。最近の論考に「WWFesにおける〈らへん〉の系譜」(Body Arts Laboratory、2023)、「これが沖縄の’現実’ですか?」(2023)など。パフォーマンスアートのプロジェクト「R5 遺構 I 以降 since then I from now」(2023)、「Inhabited island - War and Body」(2023)などにも参加。