カハタレ日誌

カハタレの稽古の様子

柿内正午による「気遣いの幽霊」観劇速報

池袋駅のガラの悪いほうを抜けたところにスタジオ空洞はある。客席に座り幕開けを待つ。開演前から会場の照明が断続的に消えたり点いたりするので、機材トラブルだろうかと訝るのだがそれにしては明滅のタイミングが出来すぎていて、おそらく不安を煽る演出であろうと判断する。上演が始まり、客電が落ちたとき、くすぐられ続けた暗がりへの恐れが掻き立てられるのだろうと予想して身構えておく。
 
そのくせ本編では客席を照らす明かりはほとんど点きっぱなしである。隣の客の手元はつねに視界の端にちらつき、われわれは俳優たちからも丸見えである。この芝居は、観客に安心して暗がりから覗き見るということを許してくれない。こちらも顔を晒しながら、素面で向き合わざるをえないようだ。
 
劇空間は横幅が広く取られている。そして、奥行きは奇妙なほど希薄である。横並びに置かれ真正面を向いている俳優たちの背後には不織布が吊り上げられており、向こう側から照明が照射される。人間の視野は左右それぞれ100度ほどあるのだけど、そのうち必要なものを識別できる有効視野はせいぜい20度程度らしい。だから人物が配置される平面を一目で見通すことはできない。必ず注意の死角がある。それぞれの人物は微妙に共有する時間がズレている。上手に近づくほど遠い過去であり、下手にくつろぐ男のところが語りの時制でいえば現在であるようだ。この男は右隣の女の夫のようであり、かれの左側にはまだ空間が広がっている。妻とその右隣の女、中央の友人ふたりの会話で想起される上手端の男──いちばん過去の男──が回想を始める。その語りの総体を配置上もっとも受動的であるはずの夫は聞き流す。右から左へ、西洋の劇空間の作法からしても、高いところから低いところへと流れていくその視線の運動は、縦書きの小説を読むときのそれとも似ている。この印象はほとんど禁欲的なまでに横方向の配置と運動だけで構成される平面的な画面構成によるものかもしれない。ほとんど例外的に下手から現れ上手へと果敢に移動を試みる者、それこそが幽霊である。本作において、幽霊はかそけき予感ではなく、むしろ存在の過剰であるとされる。幽霊は誰よりもこの場において浮いている。じっさい、幽霊が現れるいちばん下手の空間を区切る不織布は、客席に対して微妙に迫り上がっているのだ。
 
本筋はないに等しいというか、本筋は脱線のための口実にしかならない。この芝居はとにかく蛇行すること自体の快楽に満ち満ちている。で、なんの話だっけ。えっと、これなんの話?
 
過去の短編「犬、呪わないで」や「月の世界」もそうであったけれど、稲垣和俊の戯曲は、ある夫妻の(非)緊張関係の描写が非常に巧みである。まだ顕在化はしていない、けれども確実にそこにある不和や破調。舞台上で登場人物たちが咀嚼する団子や白滝、おなじ食べ物であっても本物の食事を頬張るシーンと、偽物を食べるふりをするシーンが混在する本作において、夫が妻に作るパスタは初めから偽物である。
 
劇場とは傾聴(の見かけ)を強いられる場である。観客は舞台上を生きる虚構の人物たちには不可視のものとして、その存在を滅却される。そのうえで、ただ静かに席に座り、面白ければ笑い、悲しければ泣くことだけが許されている。観客は、上演中、その作品が作品であるために、あたうるかぎり上演されつつあるものを気遣っている。そして、その気遣いは誰にも思い出されることはない。気遣いの幽霊とは、観客のことではなかったか。
 
気遣いの幽霊たちの傾聴によって成立する空間において、ふだん人がいかに人の話の聞いていないか、その聞いていなさをどう表現すればよいのか。言い換えれば、観客がいかに目の前の芝居を真に受けていないかを突きつけるにはどうしたらよいのか。『気遣いの幽霊』は複層化した語りのひとまずの収束点である現在の夫のすべてを聞き流す態度としてこれを示してみせる。夫は、その場で繰り広げられる豊かな脱線や、滑稽な冗漫さをすべて枝葉として切り捨ててしまう。夫は、妻の言葉のほとんどを受け取り損ね、決して現在から過去に向かって動き出そうとしない。
 
ゴーゴリの『外套』に着想を得たというこの芝居の幽霊は、現在に安住する表面上は「優しく聞き分けのよい」夫の不動の故に、けっして挾み撃たれることはない。ただそれぞれの位相からの声たちにもみくちゃにされ、挙動不審な身体のブレさえも次第に抑制されて、幽霊はけっきょくは現在よりも下手側、非在の位相へと流されていくほかないのである。
 
中盤のクライマックス、井の頭公園で三人の大人たちが大泣きするシーンは素朴に感動的である(稲垣の過去作「終わりの会」よりも泣き笑いのカタルシスがずっと洗練されている)。それは、このシーンこそが唯一、日常生活の上演を基礎づける気遣いのコードのほつれ目であり、過去や未来の意味にも囚われず、ただその場で喚起させられたものにだけ突き動かされるようにして、ひたすら泣くという行為だけが為されていたからだ。
 
 
 
執筆:柿内正午
かきないしょうご。会社員。文筆。■著書『プルーストを読む生活』(H.A.B) 『会社員の哲学 増補版』等■寄稿『文學界』『週刊読書人』他 ■Podcast#ポイエティークRADIO 」毎週月曜配信中。 ■最高のアイコンは箕輪麻紀子さん作 ■ご依頼などの連絡は akamimi.house@gmail.com